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卒業生インタビュー!

学生が気になる卒業生・修了生にインタビューしました。

仕事場に訪れいろいろ質問しています。

陶磁

金工

 

漆・木工

 

染織

 

山本優美

山本 優美 Masami YAMAMOTO  

H18 工芸科陶磁コース卒業

 

 

Interviewer: 佐藤 文 (H24入学)

──工芸科を志したきっかけはありますか?

  私はもともと20世紀の西洋美術に興味を持ったことが美術の道を志した動機でした。その時に立体やインスタレーション表現に興味があったことと、予備校時代に作っていた立体を予備校の講師から「工芸的」と言われ、工芸が向いているのかなと思ったという単純な動機ですかね。立体表現であれば一般的には彫刻科に進むのかもしれませんが、金属・木・布・粘土など様々な素材に触れられるということで工芸科に進もうと考えました。もともと興味があったファインアートの世界と、素材や素材による技術・技法に特化した表現に次第に違和感を感じるようになり、工芸的な探求と自分が興味を持ってやりたいと思っていることがずれているなと思いながら悶々とした制作の日々を過ごしていました。

 

  兵庫県の神戸出身で、関西の美術館の展覧会はかなり回っていたので、そこで目にする60年代~70年代ごろのコレクションから無意識に影響を受けていて、またその時代の影響から抜け出さなければいけないなと後になって考えていました。アートの世界を志すきっかけになったのはミニマルアートの展覧会。シュルレアリスムは10代の頃から好きでした。これは通過儀礼のようなものかもしれませんが

 

 

 


──どうして陶芸をえらんだのでしょうか。
 

 

  日常的に目にして受け取っている様々なイメージを、いろんな方法で操作して変形させたり組み合わせたりしたいと当時思っていたので、その欲求に一番応えてくれると思ったのが粘土だったんですよ。粘土の可塑性、直接触って加工できたり、手にかける力によってそれが土の表面に現れてきたり、立体的な表現も絵画的な表現もできるなと思って。最初、ファインアートに興味を持って美大を志したということもあり、「陶芸」をやることになるとは思ってもみませんでした。

    ただ、自由に形を作ることができるという可塑性だけでは陶芸素材で作られた作品がアートとして成り立たないことにも薄々気が付いていて、じゃあどこにその可能性があるのかというのは学部の四年間では答えが出せませんでした。

 

 

 

 

──卒業後にベルギーのラ・カンブル美術大学へ留学されていますがどういった経緯だったのでしょうか。

  もともと美術大学に行こうか語学の大学に行こうか迷う時期があったほど語学が好きでした。美大に進学したのですが、幸運にも金沢美大では語学の授業がとても充実していて、そこでフランス語を学びました。とても面白くてはまってしまって。当時美大の大学院にいた留学生と一軒家をシェアして暮らしていて、そこでの様々な国の留学生と出会いとカルチャーショックの中で、自分も日本の外で学んでみたい、外から日本を見てみたいと自然に考えるようになりました。大学で学んだおかげで話せるようになったフランス語で、市の交流事業のナンシー留学を考えていました。ナンシーの試験は落ちてしまったのですが、最終的にはロータリーの国際親善奨学金で二年間ベルギーに行くことになりました。

 

   ベルギーで進学した大学院の授業では修了の論文が一応あるんですけど、50ページ自分の制作について書きなさいというものでしたね。もちろん仏語です。専攻の教授は週二日大学に来て、制作に関する個人ミーティングを行います。下の名前で呼び合うほどフレンドリーな関係でしたよ。そのほかの日は学科の授業を受けて、大学ではずっと制作していました。美術史や映画史、現代美術などの学科は面白かったです。

 

 

 

 

──修了後はどうされていたのでしょうか。



  自分が陶芸の素材を使いながら現代アートとして成立させたいと考えるときに、私の印象ですけどヨーロッパは、ガラスや陶芸などが含まれる応用芸術(applied art)や装飾芸術(decorative art)の領域と現代アートの領域が完全に別々でマーケットもかなり明確に分かれている。 一方で日本では、現代美術のギャラリーで陶芸の取り扱いがあったり、アートと工芸のマーケットが入り交じっている部分もある。ヨーロッパのセラミック界は日本とはまた違ったセンスがあり、とても面白くて充実しているんですけど、逆にセラミックという言うジャンルから出られない。比較的新しい時代になってから盛んに磁器とか陶器が作られているので、あまり陶芸の伝統的な歴史が古くなく、発想がすごく自由なんです。そんな経緯もあり、日本に帰ってきた方が工芸素材からアートにアプローチしやすいのではないかと考えました。

   

    ベルギーから帰国した後、学んだ大学のある金沢で制作活動を行おうと思い、同時に卯辰山工芸工房を受験しました。一度目の試験には落ちてしまい、金沢で美術工芸品を扱うお店に就職しました。伝統工芸展などに出品されている作家の方々の作品を中心に扱うお店で、そこで正社員として働いて工房の設備などのためのお金を貯めようと思っていました。しかし就職してから半年で店が潰れてしまって!その後は卯辰山工芸工房をもう一回受験しようと決め、アルバイトしながら作品を作っていました。

 

 

 

 

──作品の話になりますが、山本さんは焼き物を記憶のメディアとして捉えているとお伺いしました。そう考えるきっかけになる出来事などありますか?

    ベルギーのブリュッセルでの大学院時代、型を使って大学院二年目の制作に取り掛かっていた時に、作品のモチーフを探して蚤の市を歩いていたことがありま した。ブリュッセルでは、古いがらくたのような物が山のように積んである蚤の市が日常的に開催されているんですね。ヨーロッパの町って石造りの建物だったり地面も石畳だったりして、日本で馴染んでいた風景と違うところに身を置いた時に、数百年も前の石造りの建物に囲まれた広場、その空気の中に漂って いるような時間の濃密さみたいなものを、時間は現代なんですけど、それが重なって空気の中に存在しているような感覚を持ったんですね。それって日本の古い 木造建築の中でもそういう時間の堆積しているような感覚って得られるはずなんですけど、日常的になり過ぎていてベルギーという異国の地の空間に身を置いたこと で、強烈に意識させられた。

 

   ただのモデルとしてのがらくたの中にも、使っていた人の存在っていうのが強烈に感じられて、これをかたどるっていうことは、その物の持つ時間であったり記憶を写し取るものなんだと。ただしモデルそのもの自体が持っている色だったりとか、例えば金属の缶なら錆びている表情とか、ある種の細部は取り除かれてしまうんだけれども、それが焼き物の素材の、存在感があったり、釉薬の表情であったり、そういうものに置き換えられることで、日常だと地続き過ぎて感じ取れないものを切り取って提示できるんじゃないかって思いました。

 

    あと、現在の作品は釉薬を使ってないものもあるんですが、釉薬も粘土も時間とともにどんどん変化していく。やわらかい、水分を含んだ粘土が乾燥して固くなって、高温焼成による化学変化が起こって粉々になるまでは二度とその形を失わない。また高温の中で釉薬が溶けて動いて留まるっていう素材の変化が、時間の流れや記憶とマッチするとその時に気が付いて。

 

 

    現在の作品につながるもとになったのは、このシリーズ(大学院修了制作)のハンカチが積み重なったものをモチーフにした作品で、この空気を含んだ柔らかい布って型が取れないじゃないですか。泥漿で浸したとしても溺れた人の服みたく重たくなってぺったんこになるので、これだけは実物を見ながら自分で原型を彫ったんです。その時の彫っている感覚が生理的にというか、すごく自分にあっているという感触と柔らかい布の表情をとらえながらそれが焼き物に置きかえられて時が止まるという変化に手ごたえを感じて。

 

    布への憧れみたいなのは昔からあって、布って時間だなって思っていて、物質自体は変わらず存在するんですけど衣服でも布でも風が吹いただけで違う形になって刻々と変化する。 そういう布の持っているイメージを焼き物に定着させる、ということに興味を持ち始めたのがこの作品です作品です

©Kichiro Okamura

 

 

──完全に作家でやっていこうと決めたのはいつ頃でしたか?

 まずベルギーに留学したときにこの二年間で何か結果が出せなければやめることも考えなければならないと思っていました。むしろ逆にこの2年間で何かしらの結果を出さなければという気持ちです。ヨーロッパは貸しギャラリーが無いので、ギャ ラリとお互いの了承が無ければ展覧会ができないのですが、べルギーのギャラリーで個展ができたことが自分にとって一つの自信になり、活動を続けようと思いました。

 

 

 

 

──大学で学んで良かったこと、学んでおけば良かったことはありますか?

  作品を作るっていうことは自分の中で問いをたてることじゃないですか。自分の中で問いを立てて、テーマを作って結果物を出していくことなので、実は百パーセント誰かからまるまる教わることはできない。でも大学という場には先生方のその豊富な専門知識も豊かな経験も集まっている場所なので、そういう場所で学ぶことは、自分が何に興味があるのかとか、自分が気づいてなかった興味や知識に刺激を与えてくれる、そういう機会の場所。何を学ぶかは学生が選ばなけばいけないことなので。

 

  アートの歴史や研究に関する情報は膨大なので、結局自分の興味があるところから切り崩していくしか無いんですけれど、学生の間にもう少し自分の知識を底上げしたかったですね。語学に関してはフランス語が話せるようになっただけでもとても良かったと思っているんですけど、英語も時間があればもっと勉強したかったですね。

 

 

 

 

──今後のビジョンはどうお考えでしょうか?

  自分の人間性も含めてアーティストとしてもっと成長していかなければならないなと感じています。知識はもちろん、意識や思考の底上げが必要だと感じていて、自分の作品から見える視点や視野の広さというようなものを広げたいと思います。あとは今、一人で制作を行っているので他の異なる専門領域の人たちと、プロジェクトのような、より多くの人と繋がるような仕事ができたら良いなと思っています。

 

 

 

 

── 金沢美大の欠点をあげるとしたら何でしょうか。

 

 今の学生さんたちは情報も積極的にとっていると思うんですけど、立地的に北陸地方は関西や関東から離れた地域なので、日本なら東京とか、海外ももちろんなのですが、何が起こっているのかという意識は常に持っていた方がいいかもしれないですね。でも情報の集中する地域と距離があるからこそ、膨大な情報に流されずに自分の世界観を大切にして醸成できることは利点でもありますね。

 

 

 

 

──今の仕事と私生活についてお伺いしてもよろしいでしょうか。

 自分の生活は制作一つでやっています。卯辰山工芸工房を修了した後に独立したのですがその時はパートで働いていました。シフトをかなり融通できる仕事で、両立させて制作と発表を絶やさずやっていくぞという気持ちでした。しかしその仕事に決めた直後に、スパイラルのコンペ・SICF(スパイラル・インディペンデントクリエーターズフェスティバル)に出品して、グランプリを受賞しました。これをきっかけに、幸運にもこの後、現在お世話になっているギャラリーと出会い、展示の予定も立て続けに入ってきました。仕事は資格を取るために勉強しなければいけないような内容だったので、パートのためにこれらの展覧会に全力で臨めないのは本末転倒だなと思い、一旦仕事を辞めて制作に集中しようと決めました。作品の販売などの収入が入るようになり、ままだまだ経済的には厳しいですが、どうにかやってます。

──最後に学生にエールなどあればお願いします。

 私の場合は作品が一定のクオリティを持つようになるのには、結構な時間がかかりました。奨学金をもらったり卯辰山工芸工房という場所で集中的に制作し、作品のクオリティを上げる時間が持てたので、今に至っていると思います。作品をもう一段階高めたい時に、誰に何と言われようと絶対作家になるんだという覚悟を持って、大学院なり博士なり、また奨学金をもらえるような環境だったり、まとまった制作や研究の時間を得られる環境に飛び込むのもありだと思ってます。そんなに効率よく力を持った作家が生まれるわけではないと思っています。

 

  自分が作家なるのだと決めたら、なれると思うんです。制作や作品の中で自分が面白いと思うこと、直感を信じてほしい。学生の時にはいろいろなところで講評してもらえるチャンスがあると思います。自分の作品のクオリティを高めてくれると思った意見については積極的に受け入れる勇気をもつ。でも作家活動していくと、いろんなことを言われると思いますが、譲れないところは譲らなくていい。

 

あと、批評してくれる人の作品であったりとかその方が属している領域や世代などを踏まえて意見を分析すると、どの部分が必要な意見か判断できるようになります。 あとは、工芸という一つの言葉のくくりの中でもいろんな可能性や方向性が広がってると思うので、工芸の場合は自分がどの方向に進もうとしているのか、どのような場所で発表ししたいのかをしっかり定めること。それを把握できていれば、活動を励まし、支えてくれる人たちときっと出会えると思います。

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